能條陽一郎(ノウジョウヨウイチロウ)
本名同じ
60〜70年代のソウル・ファンクなどのブラックミュージックをルーツとし、
独自のファンキーミュージックを展開するシンガーソングライター
自主レーベル兼ネットショップQuestionLove代表
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能條陽一郎のこれまで
1974年11月21日 東京都国分寺市にに生まれる。
小学校は実家から徒歩1分の国分寺市立第一小学校入学。
入学当初は喘息や血管性しはん病にかかるなど、病弱だった。
小学2年の頃より、突然天然パーマになり、その後しばらくコンプレックスを抱く。
また、この頃、ジャッキーチェンの影響により、
七夕の短冊に”カンフーの達人になりたい”と願いを綴る。
小学3年になるとサッカーを始めたため、サッカー選手になりたくなる。
小学6年の頃、巷でアルゼンチン代表のサッカー選手マラドーナが出演していた
Novaという飲料水のCMが流行。
そんな最中、体育の授業でマラドーナばりのボレーシュートを決め、
もじゃもじゃ頭と名字にノがつくという理由からノバドーナとあだ名が着く。
この頃初めて自分の小遣いでCD(機動戦士ガンダムのサントラ)を購入。
★☆それから☆★
国分寺市立第二中学校入学。
中学1年頃よりバンドブームの影響もあり、音楽をよく聞くようになる。
中学2年の正月、質屋でギターを手に入れ、同級生らとバンドを始める。
この頃は歌は歌わずギターのみ。
ブルーハーツを1曲コピーした後、
他にコピーが出来なかったためオリジナル曲を作り始める。
メンバーの兄が持っていた機材を使い、多重録音も始める。
そうして作った稚拙なデモテープを無理矢理同級生に500円で販売(今では後悔)。
★☆それから☆★
啓明学園高校入学。
同級生と組んだコピーバンドより歌を歌いはじめ、 歌う楽しさを知る。
同時進行で自宅で一人多重録音をはじめる。
また、この頃よりJB,プリンス、ジミヘンなどファンキーな音楽に目覚め、
サッカーよりも音楽に傾倒しはじめる。
高校卒業後、東洋大学文学部印度哲学科に進学するも半年で中退。
音楽を真剣にやることを決意。
勘当覚悟で父親にそのことを告げると、以外とあっさり了承。
ただし、ちゃんとその道の勉強をしろと言われる。
メーザーミュージックカレッジにて元ローザルクセンブルクのG玉城宏志氏に師事。
何気なく弾くフレーズひとつひとつがあまりに凄いので感動する。
☆★それから☆★
一人多重録音によるアルバム「人間ボカンショー」をリリース(完売)。
翌年より、テレマーケティング会社のSVなどの仕事をしながら本格的にライブ活動開始。
天然パーマを生かしたアフロヘアにビッグなベルボトムというルックス、
ファンキーな楽曲を無理矢理アコースティックギターで弾き語りする
というライブスタイルで話題を呼ぶ。
この頃、シングル「天然パーマン」リリース(完売)。
☆★それから☆★
ライブハウスで意気投合したラリー小野田ら先輩ミュージシャンをバックに
バンドでのライブ活動を始め、様々なイベントに呼ばれるようになる。
現在のバンドでのファンキーミュージックの基礎はこの頃に培う。
自主企画イベント「もーれつアGo!Go!」開催。
アルバム「SingerSongRhymeRider」リリース(完売)。
☆★それから☆★
親交があったBAND「音柄」のメンバーらと新バンド結成。
ソロのライブでの定番曲であった「人間ボカン」という曲名から
バンド名を”人間ボカン”とする。
この頃、高校の同級生でスタッフであった真鍋倫子と結婚。
二人ともモアイが見たかったため、新婚旅行はイースター島へ。
バンド・人間ボカンはドラマー交代をはさみつつ、
自主イベント「人間ボカンショー」の定期開催や300円シングルシリーズのリリース、
自身の作詞作曲による楽曲「Robot Only Knows」での
第3回レーベル合同オーディショングランプリ受賞などで人気を博すが、
惜しまれつつ解散。
☆★それから☆★
自主イベント「People Get Ready」よりソロ活動再開。
長男「倫太郎」誕生。出産に立ち会い感動する。
自主イベント「People Get Ready」を定期開催しながら、
ほぼ固定メンバーで能條陽一郎BAND名義でのLIVEを繰り返す。
自分にあったファンキーミュージックの在り方をつかみ、
それに対してのお客さんの反応に手応えを感じる。
また、音源に関しても既存の流通システムに頼らずお客さんと直接つながる
方法として自主レーベルのやり方を模索した結果、ネットショップという形で
開業することを決意。
能條陽一郎BAND名義でミニアルバム「GrooveFruits」をレコーディング。
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